2012年11月21日水曜日

トイレの油絵

家がなくなった。


正確にいうと、祖母宅である。築50年以上、所謂由緒正しい日本家屋だった。私が生まれた時に当然それはあり(父が生まれた頃からあったのだから当然で)、記憶がたどる一番古いところには、もうそれは存在していた。


祖父が他界し、祖母が両親と私の実家で同居を始めたことで、かつて人大家族で賑わったその家には一人も人がいなくなった。そして、先月とうとう取り壊されることになった。

その話しを東京で聞いた時、全く実感がわかなかった。というか、今も湧いていない。それがなくなる、というのは、たもにとっては道から信号がなくなるくらい不自然なことやから。今でも、その玄関から台所、居間の情景、手すりや畳の足の裏の感触まで完全に再現できる。背が伸びる度に祖父が柱に刻んでくれた成長記録や、昔ながらの音の悪い電話、ひんやりとした仏間や、湿った匂いのする寝室、段差が高すぎて登りにくい玄関や、薄い光の差す天窓、セミの孵化をみた大きな庭の木や、干し柿が鈴なりに吊るされたベランダ、トイレにかかっていた湖の綺麗な油絵。

全部たもにとってはあまりに鮮明で、その全てに思い出がいっぱいあって、それがもうそこにないなんて、やっぱり信じられない。そう思うと、なんだか泣けてきた。

誰がいなくなったわけでないのに、家に対してこれほど愛着があったなんて、なくなってから改めて気がついた。その家は、たもが無条件に守られ、多くの人に大切にしてもらった場所でもあった。(それはもう、アイドルでしたので)

東京にいるだけでこんなに泣けてくるなんて、実際この目でその更地を見たらきっと大泣きするだろう。やっぱり、暫く大阪には帰れないかなあ。



2012年9月4日火曜日

中国に降り立ってから

9月初旬、去年、この時期自分がどういう気持だったか憶えている。

中国に降り立った。限りない不安と、少しの期待だった。その期待は、就職前に与えられた最後の猶予期間が、良いものであってくれという祈りに近かったようにも思う。

正直中国語のレベルはほぼ0だった。放送も何言っとるか分からんし、なんか分からんけど空港で何回か怒られてパニックになった。そんな泣きそうな心持ちの一年前だ。

さて一年経ってみて、随分環境は変わった。東京に出てきて社会人としてひとり暮らしをしているし、何より、必死でやった少しは中国語はできるようになっていた。あのあと4ヶ月後日本にかえる頃には、電車に乗り合わせたおばちゃんの会話に吹き出すまでになったのだから、頑張ったと自分を褒めてもバチは当たらんと思う。

しかし、あの頃を思い出すと、あーいいなあ、と思う。あの頃には、言いようもない自由があった。学生という自由だけでない。誰も私を知らない、一見怖いような環境は、裏を返せば誰も私を先入観で見ない環境だった。一から自分を知ってもらうというのは、なんて素敵なことだろうと思った。特に、中国をバックパックした時、彼ら中国人は、私を単なる日本人として時に厳しく時に優しく迎えた。もちろんうちはそれ以上でもそれ以下でもないのだけど、たまに日本にいると忘れそうになる。


そういう記憶は辛い時に自分を本当に支えてくれている。そしていつか帰ることをたのしみに仕事に励むこともできる。大阪も、カナダも、中国も、たもには、帰る場所がいっぱいあるんやなあ、と、感謝せずにはいられない。





2012年7月16日月曜日

嵐のような

怒涛の一ヶ月だ。そして数十回へこんだ。

自分の無力を感じることがここまであるだろうか。いつかの決意も、崩れてしまいそう。運の悪いことが何度か重なったこともある。

そんな時、以前の自分の記事を見ている。道は一つじゃないし、自分のペースで歩めばいいと、何度も自分に言い聞かせる。こんなことを乗り越えた先に、自分はもっと自信を持てるようになるのだろうか。


生活を楽しもう。細切れの時間の、ささやかなしあわせを見逃さないよう、気をつけて毎日を生きていよう。それは、誰にも邪魔される事ない、だれもが持っている権利のはずだから。

2012年6月3日日曜日

お茶碗とおはし

思ったより結構すぐに自宅に帰ってきた。ただし、今回は休暇ではなく出張だ。家に帰って、手に感覚が染みついたドアを開けて、ショックだったことがある。

家が、変わっている。しばらく来ないうちに、でっかいテレビがあったり、見たことがない家具があったり。極めつけは、私の部屋にでっかいベッドがあった。そして、それに対する強い不快感。

自分の部屋が物置になるのは仕方がない。私はここに住んでいないわけだし、物事を合理的に考えるとそうなるのは仕方がないのだ。しかし同時に、自分の部屋につみあがった荷物や見覚えのない家具を見ると、この家に自分の居場所は少しずつなくなってきていると感じてしまう。十数年住んだ自分の空間を侵害された錯覚に陥ってしまう。東京の家は、もう慣れてはきたけれどまだ完全に「私の家」ではない。そういった意味で、実家に居場所がなくなることは、私にとって所属の喪失を意味したのだ。

ただ反対に、当たり前のようにいつもの場所においてある自分のお茶碗やお箸を見ると、やっぱりうれしい。そうした一つ一つが、自分がここにいて良いというしるしのように感じる。

仕方がないのだけれど、まだ受け入れられない現実である。ただわがままが許されるなら、私に家族が見つかるまでは、おちゃわんとお箸は置いといてほしいなあ。

2012年5月6日日曜日

GW 帰省につけ

怒涛のような一か月が過ぎた。というと、言い過ぎである。学んだことは多いし、学生時代よりは確実に忙しい。が、まだうわーっていう状況にはなっていない。とても特殊なプロジェクトに入ったことも理由の一因だろう。学んだことが3つある。

1つめは、気にしすぎない程よい無神経さの大切さだ。社会人になってから、自分の言動に対する不安と、わからないことに対する恥ずかしさに胃がきりきりしていた。あんときのあれは、どうとられるんやろう、とか考え始めると、ほんまにきりがない。切り替えが大事、とか耳が腐り落ちるくらい聞くけど、ほんまに大事やと思う。それが何か生まないなら、さっさと違うこと考えるなり、今を楽しむなりするべきだ。

2つ目は、同期の大切さ。京都採用のたもは、大部分を占める東京採用の人と入社までそれほどかかわりがなかった。から、このおのぼりが東京人と仲良くできるか大いに心配だったけど、みんなとってもいい人だった。それと、みなそれなりに似たような悩みを抱えている。同期がほめられると、なんだか自分がほめられてるみたいで、うれしくなる。そんな人にたくさん出会えたのは、本当に幸運だ。


3つ目は、自分の根っこが移動し始めているということだ。GWで大阪の実家に帰ってきた。何もかも変わっていない実家を見て、なんだか学生に戻ったみたいな感覚だっけど、自分は帰らないといけない。この家はいつもどの国に行っても帰ってくる場所だった。仮住まいとして使うことになるのは、人生で初めてだ。その当たり前の現実に、はじめは違和感を覚えたけど、今は結構受け止めている。大人になるって、たぶんそういうことも含んでいると思う。


とはいってもその気になれば結構帰ってこれる。しばらくは、またあえて短期的目標を持って目の前のことを粛々とこなしていこう。

2012年4月8日日曜日

ふと考えると


人生において、本当に大切な出会いは突然やってくることを知っている。そして、それは時に気乗りしないことをしぶしぶやった時に起こる。

カナダでは、気持ちがふさぎこんでいた時に嫌々出かけた友人のコンサートの帰り道、道を通りかかったクラスメートと、帰国前はもちろん帰国後さえも、素晴らしい関係ができた。知り合いが全くいないダンスのクラスにこわごわ飛び込んだときは、偶然入り口で待っていたフランス人とその後ずっと長い付き合いが生まれた。

あの時、もしあれをしていなかったら、と考えると、自分の人生は信じられないくらい違っていたと思う。そういった意味で、あれらは人生の転機である。人生の転機とは、清水の舞台から飛び降りるというよりは、もうちょっとささやかかもしれへんと思わずにいられない。

しばらくはそんな些細な兆候を見逃さないよう努めるばかりである。



2012年3月7日水曜日

うさぎとの夢

たもは正義感が強い方だ。といえば聞こえはいいが、つまりは自分が勝手に「正しい」と思うことを、貫かんと背中が痒くなるだけである。理不尽、という言葉が一番嫌いだ。自分に厳しく、ついでに他人にも厳しい。むむう。

中学の頃である。クラスの係を春に毎年決める。たもはうさぎと戯れる飼育係をやりたかった。立候補はたもと、クラス一番人気の、女子一人。たもはあの荒れた中学では決して目立つ様なことはせず、なるべく波風立てないように生きてきた。そして、おそらく自分が勝つと相当に自身があった彼女は、「クラス投票にしましょう!」と朗らかに自ら申し出、クラスもおっしゃーという雰囲気になっていた。

後にも先にも、中学でたもが切れたのはこの時だけである。ものすごい音で机をたたき、「なんで自分ですることを、人に決められんとあかんのですか!」とクラスに向けて怒鳴った。生徒だけでなく先生までびっくりさせた結果、くじ引きに変更され、たもは結局敗北、うさぎとの夢は敗れ去った訳だが、納得感満々で下校した。

べつにうさぎにそこまで執着があった訳ではない。ただ、理不尽、だと思ったから「正す」必要があっただけだ。この出来事は今でも鮮明に覚えている。

ただし、正しい、ということが絶対評価でないことは、学んでいかないといけない。ものさしは人によって違う。加えて理想は、理不尽、と思っても、それが全て正されるわけではない、ということを、本当の意味で理解すること。わかってはいるんだけど、まだグレーゾーンを許しきれないところは、子どもなのかもしれない。

2012年3月5日月曜日

こまぎれ

就職が近くなってくるにつれて、引っ越しの手続き等、現実味が増してきた。たもは、4月からコンサルタントの卵として働くことになる。

正直、めっちゃ不安である。不安の要素は3つぐらいに分解できて、社会人になるという不安、東京に住むという不安、そして激務への不安である。中国へ行く前は、正直毎朝鬱であった。朝起きるたびに、この不安へまた一歩近づいていると感じて、怖くて、怖かった。

ただ、中国にいってからちょっとだけ考え方が変わった。人生はゼリーみたいに変幻自在だと感じた。就職は死刑宣告ではなく、長い人生の一部分なのだ。それでいて、日常ではあえてその長さに圧倒されずに、毎日を断片的にとらえ、こなし、ささやかな幸せを見つければいいのだと、感じた。

社会人になっても、日記を書きたい。時間がなくても、短くても、発見を大切にしたい。友達家族とつながっていたい。それって、そんなに贅沢なんやろうか。

2012年2月21日火曜日

最近

気持ちのUp downが激しいなと思う。うっかりこんなこと言ったら欝の人みたいやけど。就職とか、引越しとか、離郷とか、そういうことが影響しているんかもしれない。就職ブルーってこんな感じか。ただ自分の気持ちを理解してくれる人は周りにいっぱいいる。これでいいんかなーってうぎゃーってなってしまう時に、それでいいんやでーって言ってくれる人がいただけで、たもはこんなに救われてきた。

自分の選択に自信をもてなくなるのは、その決断を思い出して今だに泣いてしまう時。ただし、きっとその地点に帰ったとしても、きっとおんなじ決断をすると思うから、なんだかんだで納得しているんだと思う。漫画みたいにたもはきっぱりと前を向いたりはできひんけど、打ち身と出血しながらでも前には進んでいくので、それはそれで立派だと褒めてやりたい。

時間が経ったら、もっと冷静に今の自分を見ることも、出来るようになるんだろうか。


2012年1月1日日曜日

年明けてみて

新年だ。中国から帰ってきて、ちょうど一週間である。なんだか、中国にいたことがうそみたいに昔に感じる。だから、風化してしまうのもきっと早いだろうから、ちゃっちゃと形に残しておこう。

中国に行ったときは、自分の中に目標があった。もちろん中国語をちゃんと勉強すること、現地の人といっぱい話をして、中国人ってなんやろうを知ること。どっちもできた。どれくらいできたか、というとしばかれそうやけど、でも、自分が結構満足できるくらいまでできた。あとは継続である。

加えて、自分は社会人になる前の非常に意味のある時間でもあった。中国にいる間、時間が過ぎるのが本当に怖かった。理由の一つとして、中国の時間が心地よくて、この時間が過ぎ去ることが怖かった。また、中国での時間の経過は、社会人へのカウントダウンである。そこからくるプレッシャーが、毎日まるで手が届くがごとく感じられた。しかし、中国での経験が、ある意味自分を後ろから押してくれていると感じるようになる。

一つは、自分は早く向こう側へ行かなければ、という気持である。向こう側という時の境界線は、消費者から生産者の境である。生まれてから今まで、自分はずっと消費者である。もちろんアルバイトはいっぱいしたことあったけど、それは責任を伴った生産者への転換ではない。よく言う言葉を借りると、一社会人としての役割を果たすことである。映画館でチケットを切る人、町の掃除のおばちゃん、明らかに私より一回り若いホテルのスタッフだって、みんな社会の自分の役割を果たしている。色々な人に会うことで、私はそろそろそっちに行かなければ、という気持ちにしてくれた。

もう一つは、人生はとっても柔軟だと気づいたことである。古い友人に中国で沢山会った。本当に、みんな私と年も変わらないのに、様々な人生を生きていた。本当に、自由である。ここでいう自由とは、毎日遊び暮らしている自由とは全く異なる性質のものである。所謂、柔軟性だ。日本には全く存在しないものである。日本は何をするにも競馬レースみたいだ。よーいどん、で同時スタートして、おんなじコースを走って、他より早くゴールしたら勝ちである。中国は違った。また、そういう生き方が羨ましかった。海外に行くたびに日本の特殊性が際立つのは、今回も例外でなかった。

本当にいろんな人に会った。そして、いろんなトラブルにも巻き込まれた。その都度いろんな人に助けられて、感謝した。そんな貴重な経験を忘れずに、今は割と前向きに準備を進められる。前を向けただけでもたもにしてみれば、十二分に中国へ行った価値はあったかも。