こちらにきた日本人がまず慣れなければいけないのは、疑いようもなく「チップ」である。これがまたなんともややこしい。合計金額の10-15%をチップとして渡すだけなのだが、これが実は想像以上に複雑である。
まず、合計金額とは、課税前の合計を意味する。ので、課税済みの金額に10-15%を足すと、少し多めに支払ってしまうことを意味する。加えて、払い方も様々である。大目に払って、おつりをもらい、チップ相当額をテーブルに残す払方。チップを含めてちょうどの金額を払い、「Keep Change」といって、おつりを受け取らない払い方。もしくは、「これ~ドルにしてくれる?」と言ってチップ込みの金額を指定する払い方。バーでは一杯ごとに1ドル程度大目に渡す。
また、クレジットカードで支払うときには、自動でチップが加算されるとき、自分でレシートに書き込むとき、機械に入力するとき、チップを別でコインで渡すとき、等々。めんどくさすぎるので、私はクレジットカードでは払わないが。
ので着た当初は恐ろしくてレストランなどに行けなかったが、最近いい加減なれてきた。しかしそれにしても、なんでこんなややこしいことをするねんと憤慨していたが、その理由がまた最近になって見えてきてもいる。
まず、レストランの従業員などは、最低賃金以下で働いている。というのは、チップをいれて、やっと最低賃金に届くように賃金が設定されているからだ。ので彼らにすると、チップはご褒美ではなく、「もらわんとやってられへん」ものなのである。またこれは、あるいみインセンティブ制度といえよう。固定賃金でなく、従業員の働き振りがある程度賃金の一部に直接反映されているとはいえないか。
加えて、これは税金対策でもあるらしい。売り上げの課税は、チップを入れない金額を対象としているので、店側は、チップ制度をもつことで、少ない額の税金ですむことになる。うーむ、賢いんだか何なのか。
なんにせよめんどくさいことには変わりない。あと、いいサービスがいわゆる常識である日本のレストランには必要のない制度である。税金対策に追われる雇用主たちが、血迷ってチップ制度を日本に導入しないことを祈る。
2010年4月26日月曜日
おつかれさまでした
先日Organizational Policyの期末試験を受け、学期がとうとう終わった。そして、これをもって私の交換留学は終了である。簡単に振り返るには、語るものが多すぎるし不可能である。学んだことは、多い。本当に、多い。
いまから一ヵ月後に帰国となる。残りは、カナダでの毎日をゆっくり楽しむことに決めた。訪問者が他国から何人かくるのも楽しみなところである。忙しすぎて、モントリオールを観光する暇が本当になかったので、行った事のない数々のミュージアムやアートギャラリーを回っていくことにしよう。ドイツにもらえそうになったインターンシップを逃したのは本当に惜しかった。だが、5月から働くのは実質不可能なので、もうもとからなかったものと考えたらいいだろう。
ここから時間が過ぎるのはとてつもなく早いだろう。それが少し怖いのと同時に、久しぶりに母国の地を踏むんだという生まれてはじめての感覚を楽しんでいる。
いまから一ヵ月後に帰国となる。残りは、カナダでの毎日をゆっくり楽しむことに決めた。訪問者が他国から何人かくるのも楽しみなところである。忙しすぎて、モントリオールを観光する暇が本当になかったので、行った事のない数々のミュージアムやアートギャラリーを回っていくことにしよう。ドイツにもらえそうになったインターンシップを逃したのは本当に惜しかった。だが、5月から働くのは実質不可能なので、もうもとからなかったものと考えたらいいだろう。
ここから時間が過ぎるのはとてつもなく早いだろう。それが少し怖いのと同時に、久しぶりに母国の地を踏むんだという生まれてはじめての感覚を楽しんでいる。
2010年4月18日日曜日
生、野菜
授業中、隣の女の子がタッパーをとりだした。授業中に飲み食いすることはここでは結構当たり前なので、あ、早弁かなーとか思いながらチラッと見ていたら、なんとその中に入っていたのは「生野菜」。隣の子が食べていたのは、にんじん、セロリ、ピーマンだった。なんというか、あらって二等分くらいに切って、そのままタッパーにいれてきたかんじだった。となりでそんなぶつ切りの野菜たちをなにもつけずにばりばりいいながら食べている彼女を唖然としてみていた自分を思い出す。
こっちの人はいろんなものを素材のまま食べる。りんごの皮など剥こうものなら、なんて繊細な、といった目でみられる。うちがうさぎさんをりんごで作ったら何というだろう。まあなんにせよ野菜は体にいいので特に文句はいうまいが、なんというか彼らはワイルドである。
ところがある日、ベビーキャロットが安売りだったのでかってみた。いつも肉じゃが等につかうが、ふと、生で食べてみることを思い立つ。これが、以外に美味しい。にんじんは自然に甘いのだ。料理したって彼らは甘いが、それとは違う甘みだった。ぽりぽりと食べているうちに、一日で一袋終えてしまった。
味覚感覚がこちらに近づいてきているのか、にんじんの秘めたポテンシャルに気づいたのかどちらだろう。
こっちの人はいろんなものを素材のまま食べる。りんごの皮など剥こうものなら、なんて繊細な、といった目でみられる。うちがうさぎさんをりんごで作ったら何というだろう。まあなんにせよ野菜は体にいいので特に文句はいうまいが、なんというか彼らはワイルドである。
ところがある日、ベビーキャロットが安売りだったのでかってみた。いつも肉じゃが等につかうが、ふと、生で食べてみることを思い立つ。これが、以外に美味しい。にんじんは自然に甘いのだ。料理したって彼らは甘いが、それとは違う甘みだった。ぽりぽりと食べているうちに、一日で一袋終えてしまった。
味覚感覚がこちらに近づいてきているのか、にんじんの秘めたポテンシャルに気づいたのかどちらだろう。
2010年4月15日木曜日
ぱぱ、子育てに従事す
今日は素晴らしくいい天気だった。友人との約束が夜だったので、夕方から散歩がてら学校から歩いて帰ることにした。まったく、濃い、濃い青空である。空気がきれいなせいだろうか。
いつも歩く道と違う道を選んでみたら、住宅街の中の小さな公園を通り過ぎた。そこでは、わんさかと小さい子供が遊んでいたのだが、あれ、と思ったのは、お父さんがたくさんいたことだ。6時過ぎである。彼らはいかにも今仕事から帰ったというような感じでスーツのまま、子供たちを遊ばせたり、よそのお母さんと話をしたりしていた。違和感を感じたのは、これが日本にない光景だからだ。平日、6時。まあ、日本では休日でもない限り、父は進んで子供と公園に来たりはしないだろうし、そもそも6時に家に帰ってこれるというのもなかなかないのではないか。
こんな小さな公園で、男女分業とカナダのワーキングスタイルの縮図をみた。カナダ人は男女とも子育てを分業し、職場も家庭の時間を守る仕組みになっているんだろう。こういう家庭を将来、自分のパートナーと築きたい。自分の夫と子供の成長を平等に分け合いたい、と感じた。
いつも歩く道と違う道を選んでみたら、住宅街の中の小さな公園を通り過ぎた。そこでは、わんさかと小さい子供が遊んでいたのだが、あれ、と思ったのは、お父さんがたくさんいたことだ。6時過ぎである。彼らはいかにも今仕事から帰ったというような感じでスーツのまま、子供たちを遊ばせたり、よそのお母さんと話をしたりしていた。違和感を感じたのは、これが日本にない光景だからだ。平日、6時。まあ、日本では休日でもない限り、父は進んで子供と公園に来たりはしないだろうし、そもそも6時に家に帰ってこれるというのもなかなかないのではないか。
こんな小さな公園で、男女分業とカナダのワーキングスタイルの縮図をみた。カナダ人は男女とも子育てを分業し、職場も家庭の時間を守る仕組みになっているんだろう。こういう家庭を将来、自分のパートナーと築きたい。自分の夫と子供の成長を平等に分け合いたい、と感じた。
2010年4月14日水曜日
フランス語
「フランス語できないの?」と聞かれることには慣れている。ここケベックはフランス語が公用語だ。たとえほとんどの人が英語とのバイリンガルだとしても、彼らは英語の侵食に対するフランス語の保持がケベックの文化の保持であると信じているため、英語スピーカーに対して大変冷たい。そもそも私は日本語スピーカーであって英語スピーカーでないのだが、といってやりたい。まあそれも、時間とともになれるもので、はいはい、できませんよーごめんねーといった感じであしらえるようになった。しかし、ひとつどうしても納得できないことがある。
それは私の英語の授業で起こった。当たり前ながら、私の英語の授業には、フランス語を第一言語とするマギル大学生が英語力の向上のため多く勉強している。ある日、英語の表現力を高めるためのグループワークで、3人のマギル大学生と授業内で作業する機会があった。そこでその3人の内の一人が私に尋ねたことは、まさに「あなたはフランス語できないの?」であった。当然私はそれに対して、「できない」と答え、彼女は「いいわよ、英語で話しましょう」と応答した。
ここで、私は普段なれているはずのこのフレーズに、とてつもない不快感を抱いた。まず第一に、ここは英語のクラスである。彼女は一体何をしに来たのか?私がフランス語ができたとしたら、フランス語で話すつもりだったのだろうか?自分の英語力の向上のためにここに座っているのではないのか?また第二に、できない、と私が答えた彼女の返答である「いいわよ(I don't mind)」という言葉は、なんや、できひんのか、という私がDowntownで頻繁に言われる言葉だが、なぜここでその屈辱を受ける必要があろうか。もう一度言うが、ここは英語系大学の、その上英語を学ぶクラスである。どうして私が、罪悪感を持つ側でなければいけないのか。
友人は、お互いを理解するためには、自分が一番使い慣れた言葉を話す必要があるからそう言ったのだろう、というが、それは必ずしもここには当てはまらないと私は信じる。仮にこれがManagementのグループワークで、グループメンバーが全員フランス語を話すなら、より深い理解のために共通の言語を話すことに対して私はまったく反論しない。しかし、英語のクラスと、Management等一般のクラスとは、そもそも最終的な目的はまったく異なる。一般のクラスの目的が効率的で深い理解であるのに対し、英語のクラスの目的は、表現力の向上と伝えようとする努力である。伝わらないなら、伝える努力をすることがそもそもの目的であるのに、彼らの考えはそれを見過ごしていないか?
私はそれを文化の保持と呼ばない。伝えることの怠惰であろう。慣れているはずのフランス語スピーカーからの軽視が、この日は最も不快だった。そしてこういった感情は、観光でただモントリオールを訪れた人や、フランス語を流暢に解する人には、なかなかわかりにくいものなのかもしれない。
それは私の英語の授業で起こった。当たり前ながら、私の英語の授業には、フランス語を第一言語とするマギル大学生が英語力の向上のため多く勉強している。ある日、英語の表現力を高めるためのグループワークで、3人のマギル大学生と授業内で作業する機会があった。そこでその3人の内の一人が私に尋ねたことは、まさに「あなたはフランス語できないの?」であった。当然私はそれに対して、「できない」と答え、彼女は「いいわよ、英語で話しましょう」と応答した。
ここで、私は普段なれているはずのこのフレーズに、とてつもない不快感を抱いた。まず第一に、ここは英語のクラスである。彼女は一体何をしに来たのか?私がフランス語ができたとしたら、フランス語で話すつもりだったのだろうか?自分の英語力の向上のためにここに座っているのではないのか?また第二に、できない、と私が答えた彼女の返答である「いいわよ(I don't mind)」という言葉は、なんや、できひんのか、という私がDowntownで頻繁に言われる言葉だが、なぜここでその屈辱を受ける必要があろうか。もう一度言うが、ここは英語系大学の、その上英語を学ぶクラスである。どうして私が、罪悪感を持つ側でなければいけないのか。
友人は、お互いを理解するためには、自分が一番使い慣れた言葉を話す必要があるからそう言ったのだろう、というが、それは必ずしもここには当てはまらないと私は信じる。仮にこれがManagementのグループワークで、グループメンバーが全員フランス語を話すなら、より深い理解のために共通の言語を話すことに対して私はまったく反論しない。しかし、英語のクラスと、Management等一般のクラスとは、そもそも最終的な目的はまったく異なる。一般のクラスの目的が効率的で深い理解であるのに対し、英語のクラスの目的は、表現力の向上と伝えようとする努力である。伝わらないなら、伝える努力をすることがそもそもの目的であるのに、彼らの考えはそれを見過ごしていないか?
私はそれを文化の保持と呼ばない。伝えることの怠惰であろう。慣れているはずのフランス語スピーカーからの軽視が、この日は最も不快だった。そしてこういった感情は、観光でただモントリオールを訪れた人や、フランス語を流暢に解する人には、なかなかわかりにくいものなのかもしれない。
2010年4月13日火曜日
どあ
カナダでは、ドアを開けたとき、後に来る人のために開けて待ってあげるのが常識である。うむ、日本でまったくそれがなかったとは言わないが、ぼんやり覚えている限り、それほど常識でなかったように思う。こちらでは、自分が出るためだけにドアを開けると、後ろの人になんでやねん、みたいな目で見られる。逆に、開けてもらったことに感謝しすぎると、なんやこのこ、みたいな目で見られたりする。
ということに気づいたのは、友達とドアを出たときに、私がうっかりドアを開けて待っているのを忘れて、友達がドアに激突したからである。うーん、慣れというのはなかなか抜けないものだ。また一方で、前の人がドアを開けて待っててくれることを無意識に期待している自分にも気づく。
これはいい文化だなと思う。見ず知らずの人に気軽にできる優しさだ。しかし、いまだなれない私は、後ろのどこまで遠くにいる人にドアを開けて待っていればいいのか分からずにいる。
ということに気づいたのは、友達とドアを出たときに、私がうっかりドアを開けて待っているのを忘れて、友達がドアに激突したからである。うーん、慣れというのはなかなか抜けないものだ。また一方で、前の人がドアを開けて待っててくれることを無意識に期待している自分にも気づく。
これはいい文化だなと思う。見ず知らずの人に気軽にできる優しさだ。しかし、いまだなれない私は、後ろのどこまで遠くにいる人にドアを開けて待っていればいいのか分からずにいる。
2010年4月8日木曜日
学期も終わりに近づくにつれ
プレゼンラッシュがやってきた。とにかくミーティングとリハーサルの嵐だった。今日三つ目のプレゼンテーションを終えて、残すところ、プレゼンテーションは後ひとつである。さて、と思って振り返ってみる。
グループワークは嫌いだった。散々いい続けているが本当に嫌いであった。しかし、今ふと思ってみる。私がこれらから得たものは、何にも変えがたいものがある。グループのミーティングの前には、緊張して、自分が集めたものをしっかりと伝えられるか心配もして、寝れない日もあった。そして、十分伝え切れなくて落ち込んでメトロに乗った日は、数えるのが馬鹿らしいほどあった。しかし、今それらのOutcomeを見てみると、やはりやる価値はあったのではないか。
Advertising Managementのグループワークでは、メンバーのスケジュールの管理を積極的に受け持ち、空いた時間でひたすらリサーチをした。Organizational Policyも、リサーチとそのサマリーをわかりやすくメンバーに提示することを心がけ、使われるかどうかなど気にせず、とにかく突き進むことにきめた。結果としてグループはしっかり私の努力に気づいてくれたし、言語のため大変重荷になっているにもかかわらず、暖かく迎えてくれた。プレゼンテーションが終わったあと、チームメイトがYuka!Good Job! と言ってハイタッチしてくれたことが忘れられず、その日はうれしくて寝れなかった。またほかのチームでは、「Yukaが日本に帰る前にパーティをしよう!」とまで言ってくれた。
なんだか、終わりよければ、ってこういうことか。と思った。結果として少しでも自分がグループに貢献できて、彼らの記憶に私が残るなら、こんなにうれしいことはないだろう。プレゼン後、一言もチームメンバーと話せなかった先学期と比べて大きな進歩だと、自分を自分でほめている。
といっても、やはり完璧には程遠い。本当のビジネスでは、言語が満足にできないことはひとつの仕事に人より多くの時間をかける言い訳にはならない。ただ、今ぐらい自分をほめてやっても罰は当たらないだろう。
グループワークは嫌いだった。散々いい続けているが本当に嫌いであった。しかし、今ふと思ってみる。私がこれらから得たものは、何にも変えがたいものがある。グループのミーティングの前には、緊張して、自分が集めたものをしっかりと伝えられるか心配もして、寝れない日もあった。そして、十分伝え切れなくて落ち込んでメトロに乗った日は、数えるのが馬鹿らしいほどあった。しかし、今それらのOutcomeを見てみると、やはりやる価値はあったのではないか。
Advertising Managementのグループワークでは、メンバーのスケジュールの管理を積極的に受け持ち、空いた時間でひたすらリサーチをした。Organizational Policyも、リサーチとそのサマリーをわかりやすくメンバーに提示することを心がけ、使われるかどうかなど気にせず、とにかく突き進むことにきめた。結果としてグループはしっかり私の努力に気づいてくれたし、言語のため大変重荷になっているにもかかわらず、暖かく迎えてくれた。プレゼンテーションが終わったあと、チームメイトがYuka!Good Job! と言ってハイタッチしてくれたことが忘れられず、その日はうれしくて寝れなかった。またほかのチームでは、「Yukaが日本に帰る前にパーティをしよう!」とまで言ってくれた。
なんだか、終わりよければ、ってこういうことか。と思った。結果として少しでも自分がグループに貢献できて、彼らの記憶に私が残るなら、こんなにうれしいことはないだろう。プレゼン後、一言もチームメンバーと話せなかった先学期と比べて大きな進歩だと、自分を自分でほめている。
といっても、やはり完璧には程遠い。本当のビジネスでは、言語が満足にできないことはひとつの仕事に人より多くの時間をかける言い訳にはならない。ただ、今ぐらい自分をほめてやっても罰は当たらないだろう。
2010年4月4日日曜日
春。
急に春が来た。一週間ほど前まで雪など降っていたのに、昨日からいきなり25度である。この国に春が来るなんて、冬の極寒を生きていたときは想像できなかったが、やはり春は「匂い」で分かるものだ。この匂いはきっと春が存在する国で万国共通だろう。
そうすると面白いもので、そんな匂いは過去のいろんな経験を鮮明に思い出させてくれる。はた、と思い出したのは、面白いことにずっと昔に一緒にいた恋人だった。こんなことをいきなり書くと空気が読めないなどとまたおこられそうだが、今になって考えることがたくさんあるな、と感じる。
「人は、精神的に一人の人しか同時に愛せない」と、こちらカナダの友人に言ったことがある。まったくそうであるとおもうが、そうであってほしいと願う気持ちの方が強い気がする。そして、自分がかつて犯した不誠実も思い出した。
たもはめっちゃ寂しがり屋である。いつも誰かと一緒にいたい。そして、誰かに必要とされたい。必要とされることに存在意義を見出し、それを感じられないときに極度の不安に襲われる。そして、必要なときに、気づいて、そばにいてほしいと願う。やはり、これはなくてはならない最低条件であろう。お互いに必要であると感じられない関係に、愛情は生まれないのだろう。
誰かに訴えかける訳でなく、ふとそんなことをもんもんと考えながらメトロ(地下鉄)に乗り、また明日も似たようなことを考える気がしている。暇人と呼びたければ呼べばいい。期待しないことが一番の近道と知りながら、少し待ってしまう自分もあまり好きでない。
春の匂いがこんなへんてこな連想をつれてきた。精神的に病んでいるのは私に違いない。
そうすると面白いもので、そんな匂いは過去のいろんな経験を鮮明に思い出させてくれる。はた、と思い出したのは、面白いことにずっと昔に一緒にいた恋人だった。こんなことをいきなり書くと空気が読めないなどとまたおこられそうだが、今になって考えることがたくさんあるな、と感じる。
「人は、精神的に一人の人しか同時に愛せない」と、こちらカナダの友人に言ったことがある。まったくそうであるとおもうが、そうであってほしいと願う気持ちの方が強い気がする。そして、自分がかつて犯した不誠実も思い出した。
たもはめっちゃ寂しがり屋である。いつも誰かと一緒にいたい。そして、誰かに必要とされたい。必要とされることに存在意義を見出し、それを感じられないときに極度の不安に襲われる。そして、必要なときに、気づいて、そばにいてほしいと願う。やはり、これはなくてはならない最低条件であろう。お互いに必要であると感じられない関係に、愛情は生まれないのだろう。
誰かに訴えかける訳でなく、ふとそんなことをもんもんと考えながらメトロ(地下鉄)に乗り、また明日も似たようなことを考える気がしている。暇人と呼びたければ呼べばいい。期待しないことが一番の近道と知りながら、少し待ってしまう自分もあまり好きでない。
春の匂いがこんなへんてこな連想をつれてきた。精神的に病んでいるのは私に違いない。
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