2010年4月14日水曜日

フランス語

「フランス語できないの?」と聞かれることには慣れている。ここケベックはフランス語が公用語だ。たとえほとんどの人が英語とのバイリンガルだとしても、彼らは英語の侵食に対するフランス語の保持がケベックの文化の保持であると信じているため、英語スピーカーに対して大変冷たい。そもそも私は日本語スピーカーであって英語スピーカーでないのだが、といってやりたい。まあそれも、時間とともになれるもので、はいはい、できませんよーごめんねーといった感じであしらえるようになった。しかし、ひとつどうしても納得できないことがある。

それは私の英語の授業で起こった。当たり前ながら、私の英語の授業には、フランス語を第一言語とするマギル大学生が英語力の向上のため多く勉強している。ある日、英語の表現力を高めるためのグループワークで、3人のマギル大学生と授業内で作業する機会があった。そこでその3人の内の一人が私に尋ねたことは、まさに「あなたはフランス語できないの?」であった。当然私はそれに対して、「できない」と答え、彼女は「いいわよ、英語で話しましょう」と応答した。

ここで、私は普段なれているはずのこのフレーズに、とてつもない不快感を抱いた。まず第一に、ここは英語のクラスである。彼女は一体何をしに来たのか?私がフランス語ができたとしたら、フランス語で話すつもりだったのだろうか?自分の英語力の向上のためにここに座っているのではないのか?また第二に、できない、と私が答えた彼女の返答である「いいわよ(I don't mind)」という言葉は、なんや、できひんのか、という私がDowntownで頻繁に言われる言葉だが、なぜここでその屈辱を受ける必要があろうか。もう一度言うが、ここは英語系大学の、その上英語を学ぶクラスである。どうして私が、罪悪感を持つ側でなければいけないのか。

友人は、お互いを理解するためには、自分が一番使い慣れた言葉を話す必要があるからそう言ったのだろう、というが、それは必ずしもここには当てはまらないと私は信じる。仮にこれがManagementのグループワークで、グループメンバーが全員フランス語を話すなら、より深い理解のために共通の言語を話すことに対して私はまったく反論しない。しかし、英語のクラスと、Management等一般のクラスとは、そもそも最終的な目的はまったく異なる。一般のクラスの目的が効率的で深い理解であるのに対し、英語のクラスの目的は、表現力の向上と伝えようとする努力である。伝わらないなら、伝える努力をすることがそもそもの目的であるのに、彼らの考えはそれを見過ごしていないか?


私はそれを文化の保持と呼ばない。伝えることの怠惰であろう。慣れているはずのフランス語スピーカーからの軽視が、この日は最も不快だった。そしてこういった感情は、観光でただモントリオールを訪れた人や、フランス語を流暢に解する人には、なかなかわかりにくいものなのかもしれない。

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